年用意




「おい、土方さん」

声と同時に原田が副長室へと入ってきた。
その傍若無人な態度はいつもの事だと気にもかけずに土方が答える。

「どうした、左之?」

「いや、巡察の途中で妙な連中を見かけたもんでさ・・・」



「・・・ってわけだ。後の判断は任せるぜ」

「ああ、ご苦労だったな」

土方に報告をしていた原田がその言葉を聞いて部屋を出ようと振り返った。


「おおおっ?!」

ズザッと音を立てて後退さる。
ゴキリと妙な音が響いたのは、無理に捻った腰の骨がずれた音かもしれない。

部屋に入った時には死角になっていた部屋の隅に黒い物体がある。
いや・・・黒い物体と化している男がいた。

こちらに背を向けて蹲っている背中は項垂れて疫病神貧乏神その他、
ありとあらゆる不幸を司る魑魅魍魎が周囲を取り巻いているかのような
妖気を纏っている。
能天気を身上としている原田でさえも気を抜けば、時折触手のようにひらめき
周囲を飲み込もうと鎌首をもたげるその気に取り込まれそうだ。


「ひ、土方さん・・・」

どうやら土方の周囲にだけは結界でもあるのか、その妖気が近づこうとしないのを
見て取って原田がそちらに身を寄せる。

「な・・・何だよ、ありゃぁ・・・」

「放っとけ・・・」

「いや・・・放っとけって・・・総司だろ、あれ・・・」

土方は冷たく言い捨てるが、知らず知らずのうちに原田の腕には鳥肌が立っている。

「何だか変な物体になってるぜ。今にもグズグズに溶け崩れて不浄神にでも
 なっちまいそうだ・・・」

「そうしたら西本願寺の坊主でも呼んできて調伏させりゃあいい」

「いや、そういう問題じゃなくてさ。何があったんだよ、あれ」

既に原田の頭の中では人というより異様な物体に成り下がっているようで、
あれ呼ばわりである。

「・・・・・・神谷に追い出されたそうだ」

原田や総司に背中を向けて文机に向かっていた土方が、実に嫌そうに口を開いた。

「あ? 追い出された? 家をか?」

「他にどこがあるってんだよ」

「そうだけどよ。・・・何をやらかしたんだ?」


「・・・・・・何も・・・してませんよ・・・」

黒い瘴気が畳の上を流れてきたような気がして原田が息を詰める。

「・・・私は・・・何もしてないのに・・・何も・・・」

じっと壁を向いたままの物体は、地の底から響くような声だけを
原田の身体に纏いつかせる。
その妖気を振り払うように原田が大きく身震いをした。
同時に土方の怒声が響く。

「何もしてねぇわけがねぇだろうがっ! 岩田帯を巻くまでと神谷が時期を
 延ばしていた煤払いを邪魔しまくったのは何処のどいつだっ!」




総司と所帯を持ってからの初めての年末年始。
妻として初めての正月に向けて気合を入れていたセイだったが、生憎
安定期前の身重の身体を気遣った周囲に、せめて岩田帯を巻くまではと
激しい動きは止められていた。
ようやく岩田帯を巻けたのは師走も二十日を過ぎた頃。
隊を上げての祝いの宴もそこそこに年末に向けてセイは意欲的に動き出した。

だが、セイに関してだけは異様に過保護となり、また甘ったれ宗次郎と化すその夫は、
しつこいほどに後を着いて歩き、細々と口出し手出しをし続けた。
どれほど叱られようと邪険にされようと、自分の妻となった以上、
自分が家にいる時にはそれを何より一番にするべきだ、
と言い募るその夫にとうとうセイの我慢の糸が切れた。

「だったら明日の夜まで帰ってこないでくださいっ!!」

「ええっ? 明日の夜は私は巡察ですよぅ」

「では・・・お戻りは明後日ですね。それまでには大掃除も終わらせておきますので、
 ごゆっくり屯所でお過ごしくださいませ」

総司の腕に大小の刀を押し付け、ぐいぐいと玄関からその背を押し出したセイは
呆然とする夫の目の前でパシリと戸を閉めた。

「せ・・・セイ? セイ、開けてくださいよ〜。もう邪魔はしませんから〜。
 ねぇ、セイ〜」

呼べど叫べど中からの応えはなく、家を放り出された新選組きっての剣豪は
とぼとぼと屯所へと足を向けるしかなかった。




「・・・ぷっ・・・ぶぶぶっ・・・だぁっはっはっはっ!!」

苦々しげな土方の説明が終わると共に原田の爆笑が室内に木霊する。

「よ、嫁の後をつけ回して嫌がられたってか? な、情けねぇ〜〜〜!!」

畳を叩いて笑い続ける原田の目尻には涙が溜まっている。

「みっともねえったらねぇぞ。仮にも一人前の一家の主が嫁に家を追い出されるなんざ
 ・・・しかも言い分は向こうが正しいときてやがる」

土方の眉間の皺がこれ以上無い程に深くなった。

「なんですよぅ・・・夫婦なんだから一緒にいたいって思っても良いじゃないですか。
 それなのに私の事を放っておくセイが悪いんですよ・・・。
 隊に居た頃はいつもいつも私の傍にいたのに・・・最近はすっかり蔑ろ。
 冷たくなったセイが悪いんです・・・」

どよんと澱んだ気が再び畳の上を流れてくる。
土方を盾にできる場所へと移動しながら原田がニヤニヤと口を開いた。

「ああ、そうだったなぁ。神谷のやつは隊士だった頃は総司が好きで好きで
 いっつも後尻にくっついてやがったよな。・・・なるほど、神谷が好きだったのは
 沖田総司って武士で、ただの男になっちまった総司には興味が無ぇのかもしれねぇなぁ。
 今頃“こんなはずじゃ無かった”って後悔してるんじゃねぇのかぁ?」

ぎゃははは、と原田が笑った時、総司の背がピクリと動いた。

左之っ、この馬鹿っ・・・という土方の制止の言葉も遅く、気づいた時には
黒い物体が原田の眼前に座り込んでいる。

「・・・セイが、私などどうでも良いと・・・そう思ってると原田さんは言うんですか?」

無表情な総司が原田の両頬をガシリと掴む。

「武士の沖田が好きだっただけで、今の私は好きじゃない・・・と?」

鼻先が触れそうな距離で囁かれる声は呪いの言葉じみて、
原田の全身から体温を奪う。

「ねぇ・・・原田さん? 本気で言ってるんです・・・か?」

その手に触れられた場所から凍りつき、痺れたように力の入らない身体に
必死に力を取り戻して、原田が精一杯首を横に振る。

「そう、ですよね。私達は鴛鴦の如く寿がれた夫婦なんですから・・・ね?」

ニヤリ、と笑んだ総司の顔は幽鬼でもここまでではないだろうというほどの
邪悪さを滲ませている。
原田はひたすらに今度は首を縦に振った。

その答えを得た事で、もはや興味は無いとばかりに原田から手を離した総司が
土方に顔を向けた。
ふたりのやりとりを呆気に取られて見ていた土方がピクリと肩を揺らす。

「そろそろセイの気も落ち着いた頃でしょうから、私は帰りますね」

答えを待つ気も無いらしく、音も無く立ち上がった総司が部屋を出るまで
鬼と呼ばれる男は身動きひとつ出来ずにいた。






あれだけ強く言ったのだから、総司は帰宅しないだろうと夕餉の支度を後回しにして
セイは土間と室内を繋ぐ床を磨く事に集中していた。

「セイ・・・」

背後からかかった声にぎょっとして振り返ると、淡い行灯の灯りの中に
見慣れた男が立っている。

「え・・・ええっ? どうして?」

「ただいま戻りました」

セイの驚きをよそに総司は静かに帰宅を告げる。

「あ、ええっと・・・お、お帰りなさいませ」

どうして帰ってきたのか、とか、帰るなと言っただろうという言葉は
混乱するセイの脳裏から散ってゆく。
むしろ謝るでなく拗ねるでもない総司の様子が気がかりで何かあったのかと
心配が先に立つ。

とにかく着替えを手伝おうと自分の袖に掛けていた襷を外そうとしたセイを
総司が押し止める。

「いいですよ。続きをしてください。自分の事ぐらい出来ますから」

「え、では・・・火鉢に炭を」

年も暮れようというこの時期。
暖を取る物が無ければ、室内といえど体が冷え切ってしまう。

「いりません・・・」

一言を残しその場を離れる総司の背中をセイは首を傾げて見送った。





いつも家で身につけている着流しに着替え、肩に綿入れを羽織っただけの男は
火の気の無い室内の障子を開け放してそこへ虚ろに寄りかかっている。

コトリ。

膝元に置かれた盆の中では温かな湯気を立ち上らせる甘酒が、甘い香りを放っている。
湯呑みから眼を上げた総司の傍らに困ったような顔のセイが膝をついていた。

「夕餉の支度に時間がかかりますから、これを飲んで待っていてください」

予定外の総司の帰宅に支度が間に合わず、繋ぎとして急ぎ作った甘酒だ。
普段であれば嬉々として口をつける総司がぼんやりと湯呑みを見つめるだけで
手に取ろうともしない。

「総司様?」

不思議そうなセイの呼びかけに総司が首を振った。

「私の事は気にしないでいいです。夕餉もお茶漬けでも何でもいいですから」

どこか生気の抜けたような声で答えた総司がついと天空にかかる月を見上げる。
そのあまりに普段と違う様子に我慢できなくなったセイが問いかけた。

「何か、あったんですか?」



セイは今でも三日と空けずに屯所に通い、主に奥向きと言われる仕事に
目を配っている。
だから隊内の動向やそこそこの仕事に関しては承知している。
ただ幹部にしか知らされないような機密事項に関しては、いくら一番隊組長の
妻であるとはいってもセイの耳に入る事は無い。
セイもそれを承知していて仕事に関する事を総司に尋ねはしなかった。今までは。

けれど今日の総司の様子はおかしすぎる。

「総司様?」

そっと総司の腕に掛けたセイの手が引かれ、大きな胸にすっぽり包まれる。
外気に晒されていたその身は冷え切ってセイの体に震えが走った。

「こんなに冷えて・・・風邪を召しますよ?」

細い腕を総司の背に回し、自分の身から熱を移そうかというようにセイが
ピタリと身体を押しつけると、膝の上に抱え上げた柔らかな身体を抱き込む
腕の力を強めて総司がセイの首筋に顔を埋めた。
そのまま言葉を紡ごうとしない総司に再びセイが問いかける。

「何があったんですか?」

繰り返された問いに仕方無さそうに総司が口を開いた。

「・・・別に・・・何もありません・・・ただ・・・」

時折首筋を掠める吐息がくすぐったくてセイが身じろいでも
総司は手を緩めようとしない。
顔を上げないままで言葉を止めてしまった総司をセイが促した。

「ただ?」

背に回っていた総司の手の平がきゅっとセイの着物を握り締めた。
皺になってしまうな、と頭の片隅で考えながら続く言葉を待つ。

「ただ・・・少し、不安になってしまっただけです・・・」

「不安?」

セイにはわからない。
昼間の遣り取りなどいつもの事とも言えるし、今更総司を不安にさせるような
ものとも思えない。
仕事に関する事ならば、こんなふうにセイに弱気を見せるはずがない。
むしろ誇りを持って近藤の為に働いているこの男が、仕事の事で不安など
感じるはずもない。
そうであるならば、やはり自分の事なのだろうか。

「昼間、言い過ぎましたか?」

恐る恐るという風情のセイの問いかけに首元の総司の唇から小さな笑みが零れた。

「まさか。あれぐらいの事を気にしていたら貴女の夫なんて出来ませんよ」

伊東に勝るとも劣らない異形の物体に成り果てていた事を忘れたように、
サラリと口にする。

「では、いったい」

「あのね・・・」

セイを遮るように総司が言葉を続けた。

「去年の今頃、私達がこんな風になってるなんて想像しましたか?」

総司の脳裏に月代を戴き腰に大小を佩いた小柄な隊士の姿が浮かぶ。
きらきらと輝く瞳は武士として生きる事に誇りを持ち、常に前を見据えていた。
全身から命の輝きを迸らせるあの姿を忘れる事など出来はしない。


「あの頃の貴女は武士として生きる事を望んで精一杯に日々を歩んでいた。
 仕方の無い事が重なったとはいえ、その道を絶たれ、こんな狭い世界に
 閉じ込められ、その上・・・」

総司の手の平がそっとセイの腰のあたりに触れる。

「母となる事を強いられて・・・。なのに、貴女を支えるべき男は
 こんなに頼りない・・・。私はちっとも貴女を幸せに出来ない。
 いつか貴女が私から離れてしまうのではないかと・・・」

ぽつりぽつりと思いを紡ぐその声音は不安を滲ませている。


幼い頃に家族から引き離されたこの男は、誰かにとっての唯一になる事を
心の底で求めていても、失う事怖さにそれを望もうとしなかった。
近藤を自分のただ一人と据えた時にも、近藤にとっての唯一に成り得ない事が
前提であったのだから。
近藤にとって女子の一番は妻であり、男の一番は土方であると承知の事。
自分はいつでも二番目以下。
そうであらばこそ、いつでも失える命だと我が身を軽く見続け、扱っていた。

それが幾つもの偶然や奇跡の上に手に入れた唯一とも言える女子を前に、
望んでも手に入らないと信じていた幸福を手にしている事実が、
時に心底恐ろしくなるのだ。

身に過ぎた幸福を手にした時、人の心に去来するのは手に入れた幸いを
実感する事ではなく、喪失への恐怖だ。

今、総司が陥っている愛執故の恐怖はセイにも覚えがある。
むしろ総司が日々直面している修羅の刻を熟知しているからこそ、
セイの方が喪失への恐怖は強いかもしれない。

けれど・・・。

そっと総司の背を撫でる。
幾度も自分を守ってくれた強く大きなこの背中が、時に幼子のように
頼りなくなる事を知っている。
伸びやかに軽やかで風のようなその心が、時に地に蹲り
小さく怯える事も知っている。

優しさと弱さは表裏一体。
強いばかりの人間などどこにも居ない。
自分が弱くなった時にはこの男が支えてくれるように、
自分も総司の支えになりたいと思う。
剣で守る道は確かに絶たれた。
けれど違う形で、その柔らかな心を守る道を与えてくれたのも総司なのだから。

共にある事で足りない部分を補い合える。
こうして自分を抱き締めて内面の思いを見せてくれる事が、自分の中の失う恐怖を
覆い隠し消し去っている事を、きっとこの男は気づかぬのだろう。
いまだ自分の肩から顔を上げようとしない、不安に染まったこの愛しい男に
どうしたら伝えられるのか、セイは総司の胸に頬を擦りつけた。


「幸せ・・・ですよ。ずっとずっと大好きだった沖田先生が傍に居てくれる。
 私を見ていてくれる。妻も子も枷にしかならないから不要だと言っていた方が、
 ややが出来た事を喜んでくださる」

ぽんぽんと、総司の背をあやすように軽く叩く。

「閉じ込められてなんていません。不幸なんかじゃありません。
 そんなふうに言わないでください・・・」

いつの間にか涙声になっていたセイの様子に、総司が慌てて顔を覗き込んだ。
月光にさらされたその面で瞳の涙が光を放つ。

「先生と一緒にいられる事が、私にとって何よりの幸せなんですからっ!」

涙を誤魔化すように強い口調で言い放ったセイの頬が小さく膨れ、
そこに唇を寄せた総司が問いかける。

「本当に? 武士の沖田じゃなくて、ただの男でも私が好きですか?」

「え? 武士の?」

涙で滲んだ目を瞬くセイから唇を離した総司が目を伏せた。

「だって原田さんが・・・貴女は武士の沖田が好きだっただけで、今の私なんて
 もう好きじゃないんじゃないかって・・・」

気弱な呟きを聞きながらセイは心の中で拳を握り締めた。

(あんの野郎〜〜〜!!)

セイと喧嘩をした時の総司が不安定になる事など、隊の中で知らぬ者は無い。
総司を宥めると同時に地獄の稽古を回避するために、わざわざセイの元へと
事情を聞きに来る者もいるほどだ。
それを承知で面白がって総司をいたぶる発言をしたに違いない。

セイの心の懲罰帳に原田の名前が大書きされた。



「武士の沖田先生も、ただの男の総司様も、どちらも大好きですよ。
 それに・・・武士の先生は私のものじゃないですけれど、総司様は
 私だけの旦那様ですもの。大好きに決まってるじゃないですか」

頬を染めながらも想いを伝えてくれる姿が総司の心を掬い上げ、
さっきまでどうにも胸を食い荒らしていた不安が霧散していく。

「私が貴女だけのものだと嬉しいですか?」

甘えるように再びセイを抱き締める。

「嬉しいに決まってるじゃないですか。総司様は違うんですか?」

照れ隠しなのか不服そうな声が投げられた。

「私だけの貴女ですか・・・嬉しいですね、本当に・・・」

ありがとう・・・と囁いた言葉は盛大に鳴いた総司の腹の虫にかき消される。


「あっ、すぐに食事の支度をしますね。すみません、本当にお茶漬けに
 なっちゃいます」

慌てて総司から身を離したセイが申し訳無さそうに立ち上がる。

「かまいませんよ。慌てて火傷なんてしないでくださいね」

照れくさそうな総司の言葉に微笑むと、セイは小走りでその場を離れた。



―――お腹は空いてますけど、胸が一杯ですから・・・
    夕餉なんて本当はどうでも良いんです。

総司の呟きは月に照らされた庭に消えていった。








数日後、「一緒にいるのが嬉しいって言ったじゃないですか」と嬉々として
セイに纏わりつく総司を引き剥がしながら、どうにか大掃除を終わらせた
沖田家では餅つきが行われていた。

「おお、盛況だなぁ」

総司から昼時に来て欲しいと乞われて足を向けた近藤が嬉しそうに声を上げる。

「何の騒ぎだよ、こりゃあ」

一瞬唖然とした土方が眉根を寄せた。


それもそのはず、広いとは言えない総司の家からあふれ出した人間達が
家の前の路上にまで縁台やら空き箱やらを並べて搗き立ての餅を頬張っている。
人波を掻き分けるように敷地に入ると玄関前の前庭では女達が手際良く餅を丸め、
切り餅にする分は四角く伸している。

裏庭から大きな歓声が上がる。
庭伝いにそちらへ回ると非番である一番隊の隊士達が諸肌脱ぎで餅を搗いていた。
その様子を笑いながら眺めているのは今夜の巡察まで時間のある十番隊の隊士達だ。
それぞれが片手に搗きたての餅と餡やら大根おろしやらを乗せた皿を持っている。


「ああ、近藤先生、土方さん、いらっしゃい」

総司が気づいて近づいてきた。

「随分派手にやってるじゃねぇか。馬鹿共が浮かれねぇように、俺達は
 正月はやらねぇって決まりを忘れたわけじゃねぇだろうな」

土方の鋭い視線に総司はヘラリと笑った。

「別に浮かれてる訳じゃないですよ。ただ楽しい事は皆でやった方が楽しさって
 増えると思うんですよね。美味しい物も皆で食べるともっと美味しくなるし
 ・・・そう思いませんか?」

土方が反論を紡ぐより先に近藤が大きく頷いた。

「ああ、そうだな。島原での宴会も良いが、こうして皆での餅つきも
 楽しくて良いじゃないか。なぁ、歳」

確かに島原で妓を総揚げしての宴会をしている事を考えれば、
この程度の騒ぎなど児戯とも言える。
土方も不満そうではあるが口を閉ざした。

「明日もやりますから、非番の隊士や手の空いている人に交代で
 餅つきを手伝って貰いたいんですよね。土方さん、良いでしょう?」

総司の言葉に土方が眼を剥いた。

「明日もって・・・いってぇどれだけ搗くんだよ」

「え〜〜〜っと・・・」

眼を閉じて眉間に指を当てた総司が口にした言葉には近藤さえも絶句した。

「一俵・・・ってセイが言ってました」

「いっ、いっぴょうだとぉぉぉ?」

単純計算でも四百人分にもなろうかという量だ。

「だって私達の事では隊の皆さんにすごくお世話になりましたし、近所の皆さんにも
 おすそ分けしますし、勿論八木さんや里乃さんや松本法眼の所にも持って行きますし。
 ああ、夕方にでも会津の公用方の所にも届けるつもりです。
 黒谷の方々にもお世話になってますから」

「ああ、それだったら俺が持って行こう。どうせ今日の夕刻には黒谷で
 公用方の広沢さんと話をする事になっているからな」

素早く立ち直った近藤の申し出に総司が頷いた。

「では、申し訳ありませんが宜しくお願いします・・・土方さん?」

唖然としたままだった土方の目の前で総司がヒラヒラと手を振った。
はっと気を取り戻した土方がその手を叩き落す。

「そんなに餅を搗いて隊士全員に振舞うってのか?」

「ええ。元旦の朝だけ屯所でもお雑煮を作りたいってセイが言ってるんですよ」

怒鳴りつけようとする土方を抑えて、総司が苦笑交じりに言葉を続ける。

「土方さんが正月の行事はしないと言うのも理解できますけれど、
 やっぱりお雑煮ぐらい食べたいと思うんですよね、みんな。
 私達は毎年こっそりセイにお雑煮を作って貰っていたでしょう?」

この京の町では外で雑煮を食べようとしても、当然ながら関西風の
白味噌仕立てのものばかりだ。
それに閉口した総司が内緒でセイに作ってもらった雑煮を嗅ぎつけた永倉や原田が
嬉々としてそれを口にして、気づいた時には毎年の事となっていた。
近藤や土方も隊士達に秘してその恩恵に預かったくちだ。

「東国の人間はやっぱりあの醤油仕立てのお雑煮が食べたいはずですしね。
 休息所を持っている人間はそこで作っても貰えますが、一般の隊士はそうはいかない。
 だからせめて・・・って。さすがにお節料理はまずいだろうけれど
 口直しに黒豆ぐらい添えても良いんじゃないかって」

総司の視線の先ではセイが近藤と土方の食事の場を整えている。

「いいじゃないか、歳。正月とて我々には何ら変わりは無い。だが新しい年を
 迎えるのは確かなんだ。一杯の雑煮が隊士達の力の素になるなら何よりだ。
 そう思わないか?」

近藤の大らかな笑みから顔を背けるようにしながら土方が呟く。

「豆々しく働く、ってなら聞かないでもねぇが・・・」

それは意地っ張りの鬼副長がセイの希望を全面的に許諾した事を示していた。

「ありがとう、土方さんっ! セイも皆も喜びますよっ!」

誰よりも嬉しそうに総司がセイの元に走り寄って行った。



その姿を目で追っていた土方がフンと鼻で笑う。

「気にしてやがったのかもしれねぇな」

「何をだ?」

近藤の問いに苦笑を浮かべたまま言葉を続ける。

「ずっと隊の仲間を偽っていたのに許されて所帯を持ったわけだろう?
 神谷の気性だ、罪悪感がぬぐえなかったんじゃねぇか?」

「ああ、それはあるだろうな。あの子は優しい子だから」

近藤が静かに頷いている。

「この機会に侘びと礼をしようと思ってるんだろうよ」

こちらに向かって総司がさかんに手招きをしている。
早く来て餅を食べろと言うのだろうか、その手には大きな皿に
山と積まれた餅が存在を主張していた。

「じゃあ、せっかくだ。たんと餅でも馳走になろうか」

楽しげに笑いながら近藤がそちらに向かって歩き出す。
相変わらず続いている餅つきの騒ぎに、幼い頃の多摩の正月準備を思い出し、
土方もそちらに一歩を踏み出した。





余談

セイの懲罰帳に大きく記載された件の男は、辛子を大量に仕込まれた餅を
セイによって口に押し込まれ、一刻近く口を押さえて庭の隅に蹲る事となった。
鬼神の異様な冷気に脅され、阿修羅の報復を受けた男だったが
その後も懲りる事無く舌禍事件を振りまいて歩いている。
ナントカは死なねば治らぬらしい。